好きなことを知っている人は、しあわせ

好きなことを知れば幸せになれる。好きなことが分からないと幸せになるのは難しい    

エンデの「モモ」を後半から読んでみた


 

 

モモを読むのは10年ぶり3回目ぐらい。今回は第3部から始めて、第2部、第1部の順に読んでみました。(深い意味があるわけではなくて何となくの思いつきで)

 

以下ネタバレになりますし、順序が反対なので、普通の紹介を読みたい人には、合わないかもしれません。

 

第3部 時間の花
時間の国から、帰ってきたモモには皆に話したいことが沢山あります。今までは自分の時間を惜しみなく皆に分け与えていたモモですが、今は少しだけでも良いので、皆の時間をもらって、モモ自身がお話をしたいのです。しかし時間泥棒に時間を奪われてしまった人々には、モモの話を聞いてあげる時間はまったくありません。そんなモモは、たった一人(と一頭の亀)で、皆の時間を取りもどす戦いに向かいます。

 

第2部 灰色の男たち
灰色の男たちの正体は、詭弁を弄して人々を騙し、時間を奪ってしまう時間泥棒でした。時間泥棒に時間を奪われた人々は、時間を無駄にしてはいけないと言う強迫観念に囚われるようになります。モモのところに遊びに来る子どもたちの中にも、満たされない子どもが増えて行きます。親から高価なおもちゃを与えられているのに、本当に欲しいものは手に入らない子ども達です。モモは、カシオペアと言う名前の亀に導かれて時間の国に行きます。その間に、灰色の男たちは人々の心を完全に支配してしまました。

 

第1部 モモとその友だち
小さな女の子、モモに出来るのは自分の時間を人にあげて、話を聞いてあげることだけでした。モモから時間をもらうと(話を聞いてもらうと)不思議なことに皆幸せな気持ちになれました。しかし、モモと仲間達に、灰色の男たちの脅威が迫っていました。

 

 

「話を聞くこと」は「時間を与えること」であること。時間をお金に変換することで、大切なことが失われてしまうこと。モモという小説は、こうしたことをテーマにした作品なのかなと、今回第3部から読んでみて思いました。

 

お金に変換される前の、時間そのものをもらわないと、「本当に愛されている」とか「本当に意味がある」と実感しにくいのが人間という生き物なのかもしれません。

 

ちょっと強引な読み方かもしれませんが、こういう読み方をすると、モモが特別な存在ではなくて、クラスに一人ぐらいいた「同性にとても人気のある女の子」のような存在に思えてきます。(現実社会では性別の壁は結構大きかったような気もしますが)大切なことは、モモを探すことではなくて、「大切な人と時間を分かち合うこと」ではないかと、今では思います。

 

蛇足
モモが日本語に翻訳されたのは40年以上前。以前から、子どもには難しい童話と言われていましたが、今の子どもたちにとっては、さらに難しい童話になっているような気がします。大人にとっては、40年の歳月を感じる日本語訳でもあります。

 

モモ 時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえして [ ミヒャエル・エンデ ]