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中国の古典そのものではなくて、日本における漢文との関りを概説したもの。
日本語の歴史や日本語学の歴史の一部として、漢文について考える一冊。
日本での漢文を考える時、重要なのは、中国語が分かる人(普通に会話や読み書きのできる人)が圧倒的に少なかった時期が、ほとんどだったということ。
中国や朝鮮半島からの渡来人、中国から日本に帰国した留学生が普通いた時代はまれ。中国語が分からない人が漢文を読み、漢文を教えるという営みが広く行われてきました。(今でも高校の漢文の授業は、中国語が専門ではない先生が教えることが多いのと状況は似ているのかもしれません)
そんな中で中国語に関する知識がそれほど無くても、ほぼ意味は分かる方法を追求してきたのが、日本における漢文訓読。(日本でもお経の大部分は、漢字の音読みだけで読経するのとは対照的)
またカタカナを使う訓読とは別に、漢字の周りに点を打っていく「ヲコト点(乎古止点)」を使う方法も紹介しています。
そんなわけで、日本における漢文の伝統をあまり過大評価するのもおかしいし、逆に日本の伝統を否定することもない。そんな著者の立ち位置にも好感を持ちました。
この本が最初に出版されたのは1968年。講談社現代新書として刊行されていたものが、ちくま学芸文庫で復刊されました。
50年以上前の出版ですが、古さを感じさせる部分は少なく非常に読みやすい文章です。(今ならコンピューターと言う所が電子計算機になっていたりはしますが)今後、中国語が分かる人が日本でも増えていくときに、漢文教育とか漢文研究はどうあるべきかという問題意識が強くあった時代。
以下は個人的な感想
結局、厳密性には欠けるけれども効率的に要領よくパターンを暗記していく漢文学習法が、日本の高校教育と相性が良かったような気がします。「厳密性に欠けるパターン暗記」という側面は、高校の英語や数学など多くの教科であったのでしょう。しかし英語や数学について、パターン暗記の功罪を考え始めると、大変なことになりそうです。一方、漢文は高校で学ぶ範囲は限られているし、歴史的な経緯もあるので、高校教育の功罪について考えてみるには丁度いいかもしれません。
蛇足
この本の著者は前野直彬(まえのなおあき)先生。
杉ではなく林を使う彬。
杉の林と言う意味ではなくて、彬らか(あきらか)と読むようです。