私は昨年メンタルクリニックを受診した時に発達障害の一種であるASD(自閉スペクトラム症)が疑われる状態だと診断されました。少し前にはアスペルガー障害とも言われていたものです。人名由来のアスペルガー障害はともかく、ASD(自閉スペクトラム症)という名称にはいまだに違和感があります。
というのはASD(自閉スペクトラム症)というのは自閉症の一種と言うよりも、現実とファンタジーの間を揺れ動く存在だと感じるからです。
ここでいう現実と言うのは、実際に体験した出来事のこと。
実体験の記憶をもとにして語られる物語。
一方ファンタジーと言うのは夢とか妄想とかに近い「物語」。夢や妄想よりは実際の出来事の影響を強く受けているけれども、現実としては辻褄(つじつま)が合わなかったりします。
現実の物語では5W1H(いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように)の多くが明確です。記憶が曖昧になっていくとしても、自分の人生の中の、どのあたりで経験したことなのかは多くの場合記憶しています。
一方、ファンタジーの世界では5W1Hは曖昧だったり、そもそも考えてもいない場合もあります。
自閉スペクトラム症というのは、一人でファンタジーの世界に浸っている状態を想定しているのでしょうが、それは一面的な理解に過ぎないと思います。
周囲の人が、「現実の体験に基づく物語(近況報告とか体験談など)」に興味を持って話をちゃんと聴いてくれる人に恵まれれば、アスペルガーと呼ばれる人でも、現実に基づいた物語の比重が高くなります。空気を読まずに自分の話ばかりをしているのかもしれませんが、それは自閉とは別の状態です。
一方、周囲に話し相手がいなかったり、頓珍漢な反応しかできないような人ばかりの場合は、無理に誰かと話すよりも自分自身のファンタジー、やや妄想的な世界に閉じこもったほうが快適に過ごせます。
不思議なもので一人きりの時に、現実を回想するような物語を思い浮かべようとすると結構苦労します。一人の時に思い浮かべる物語は、自分にとって強烈な印象を残した場面だけを切り取ったようなもの。寝ている時に見る夢とかに近い状態だと思います。
人によっては、将棋とか数学とかの抽象的な世界が、居心地がよいのかもしれません。
窓ぎわのトットちゃんで校長先生(小林先生)が凄いのは、学校での疎外感によって空想の世界、ファンタジーの世界に行ってしまいそうなトットちゃん(黒柳徹子)を、現実の物語に引き戻したことだと思います。
いわゆる無敵の人と言うのは現実の物語に意味を見出せず、ファンジーが肥大化した状態だと思います。(その一方で、強烈な怨みの対象など、わずかな部分では現実とつながっているので深刻な事件につながることもあります)
アスペルガーにとっての現実の物語を理解せず、不登校の解消や就労、自立支援などの健常者側から見える問題ばかりを強調する支援者が、ASD、アスペルガー障害の人たちをファンタジーの世界に追いやり、無敵に人を作り出しているのではないかと思います。
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