今日は2024年9月1日、日曜日。(9月1日が平日の場合)8月31日は子どもの自殺が最も多い日と言われているからか、「今、つらい人へ」などと言ったネット広告を見かけます。数日前にはヤフーニュースの一番上にも、リンクが張られていました。それをクリックすると「あなたの居場所(チャット相談のサイト)」などのサービスが紹介されています。
そうしたサービスには、子どもや若者の居場所をキャッチフレーズにしているものが多くあります。居場所と言う言葉は曖昧なので、都合よく利用されていると言うか、居場所をうたえば、補助金を得やすい、寄付が集まりやすいといった事情もありそうです。
子ども食堂も、「子どもたちの居場所」と一言付け加えると、集まる寄付が増えるのかもしれません。
本来、子どもたちにとって主な居場所は、家庭と学校です。(施設や寮で生活している人とか、クラブ活動が主な居場所になっている人もいますが、典型的なパターンとして)
家庭と学校という二つの居場所の内、学校は夏休みは休みです。9月になって、学校が始まる時、それが引き金となって命を絶ってしまう子どもたちがいる。何か対策を立てたいけれど、本当に有効な対策はよく分からない。そこでネットの居場所みたいなものを作って、それを宣伝することで、やるべきことはやったと安心(言い訳?)したい人たちがいるのでしょう。そして、それをビジネスチャンスと思って補助金をゲットする若き「社会起業家」のような人たち。事業内容より政治家やマスコミ関係者とのコネで仕事が決まるみたいで、個人的には良い印象がないのですが。(めざまし8とか、ミスターサンデーに出ているOさんとか)
学校は居場所としての役割を期待されているけれども、一部の子どもにとって学校は居場所ではなくて苦痛を受ける場所。その理由は、いじめとか勉強が分からないとか色々あると思います。しかし、学校で、つらいことがあるかどうかと、学校が居場所の役割を果たすかどうかは本来別問題だと思います。
学校が居場所の役割を持てるかどうかは、子どもたち、一人、一人の物語(ナラティブ、人生とか主観的な世界)を大切にできるのかにかかっていると思います。
(安らぎを得る場所とか癒しの場所という意味での居場所は、家庭とか住居が担っているのに対して、学校などは、自分らしく生きる場所としての居場所の役割を果たすことが期待されている)
夏休みが終わっても学校に行きたくないという場合は、学校が居場所の役割を果たしていないというのが大きな要因だと思います。
居場所として機能する学校と居場所としての役割を果たさない学校、両者の違いを分かりやすく示しているのが、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」(原作、及びアニメ映画)
一斉授業で集団の秩序に従うように求められた最初の小学校。そこでトットちゃん(小学校1年生だった黒柳徹子)は居場所を無くしてしまいます。しかし、転校先のトモエ学園では、別人のように生き生きとした学園生活を送ります。二つの学校で何が違うのかと言えば、一人、一人の物語(主観的な世界)を大切にするか、集団の秩序を優先するかの違いだと思います。
校舎があって教室があって、校庭があってといった物理的な条件はあまり関係なく、先生と生徒、あるいは友達同士で、子どもたち一人、一人の物語を大切できるかが重要になります。(トットちゃんの映画を見た人なら分かるでしょうが、居場所づくりで大事なのは教室として使っていた古い電車よりも、校長先生や担任の先生との人間関係ということになります)
学校が居場所にならないのなら新しい居場所作ろう(だから補助金をくれ)という発想は間違いではないと思います。しかし、そこには問題もはらんでいると思います。
それは、新しい居場所で大切にされるのは、子どもたち一人、一人の物語ではなくて、政治家や行政、大口の寄付者にとって都合の良い物語である可能性が高いからです。
何回かチャット相談すれば大人しく学校に行く子ども、プログラミングとか芸術、スポーツなどに特別な才能があるギフテッドと言われる子ども、成績は良くなくても体を動かす集団の遊びに夢中になって誰からも好かれる子ども。
補助金が付くのは(税金が投入されたり寄付が集まるのは)、大人や社会にとって耳ざわりの良い物語であって、子どもたち一人、一人に本当に寄り添った物語ではありません。学校同様に、社会で共有する大きな物語への一体化を求める内容になりがちです。
居場所づくりと言っても、補助金が付きネット広告で広く告知されるような事業は、広い意味での学校のバリエーションに過ぎないと思います。
私からすると「見せかけの居場所」を作って、大人たちが安心しているだけのように見えます。
立派な校舎はあっても、そこに通うに生徒も先生も忙しすぎて、一人、一人が、じっくり向き合う時間がない。だから、子どもたち一人、一人の物語は疎外されて、学校自体居場所としての役割を失っている。
居場所づくりをうたうのなら、そうした現実に向き合うべきでしょう。