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東大のへんな問題(金子みすゞの詩)


少し前に、東大のへんな問題という本を紹介しましたが、それ以上に変だと思う問題を見つけたので、紹介します。

 

金子みすゞの二つの詩を題材にした出題です。
1985年当時は、金子みすゞが「再発見」された直後で、あまり知られていなかったとのこと。

 

問題

「次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ。(句読点も一字として数える。)」

 

「積もった雪」

 

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

 

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

 

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。

 

「大漁」

 

朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

 

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。

(以上、問題 終わり)
原文の鰮(いわし)を、一般的な表記の鰯に書き換えているようです。

 


「積もった雪」は、救いのない理不尽な世の中を象徴しているよう。一方、今では有名な「大漁」は、哲学的な思索とも解釈できるけれど、優しい感性の表れと受け取るのが自然でしょう。

 

さて、両者の共通点は?

 

両方とも哲学的な思索の表れだ(原罪とか食物連鎖を象徴している)という解説が、しっくりこないので、金子みすゞの詩集を眺めてみました。

 

金子みすゞの詩の多くに共通しているのは、擬人化と「視点の移動」でしょうか。「中の雪」の視点になれば「さびしい」だろうし、「いわし」の視点に立てば仲間の弔いをしたくなる。この辺りにとどまれば、金子みすずのイメージとのギャップは小さいと思います。

 

二つ詩だけでは、共通点がみえづらいという点で、やはり「へんな問題」という気がします。

 

ちなみに、金子みすゞには、「去年のきょう」という関東大震災を題材にした詩も。世の中の理不尽さを声高に歌わなくても、過去と今をつなぐだけでも、人間にとっては意味があるということでしょうか。ネット上にはいくつかのバージョンがありますが、詩集にも収録されていて、暗示的なバージョンを引用します。

 

金子みすゞが関東大震災の翌年に詠んだ詩 


去年のきょう ―大震記念日に―
 
 去年のきょうは、いまごろは、私は積木をしてました。
 積木の城はがらがらと、みるまにくずれて散りました。
 
 去年のきょうの、くれがたは、芝生のうえに居りました。
 黒い火事雲こわいけど、お母さまお瞳がありました。
 
 去年のきょうが、暮れてから、せんのお家は焼けました。
 あの日届いた洋服も、積木の城も焼けました。
 
 去年のきょうの、夜更けて、火の色映る雲のまに、
 白い月かげみたときも、母さま抱いててくれました。
 
 お衣はみんな、あたらしい、お家もとうに、建ったけど、
 去年のきょうの、母さまよ、私はさびしくなりました。